『手話の世界へ』次章では手話が言語なのかを科学的な調査結果とともに説明しています。
というのも文化的には手話は言語であるという意見と、身振り手振り(ジェスチャー)の延長でしか無く言語と呼べるものでは無いという論争が長い間行われていて、日本でも手話が言語であると法律で定められたのは2011年の障害者基本法が改正されるまではありませんでした。
では科学的にはどうなのか?言語は脳の左側で処理され、右側では視覚的・空間的世界を処理しています。
健聴者のあいだでジェスチャーのやりとりを行っている時は、脳の右側が使われているのですが、調査の結果、ろう者が手話で会話を行う時には、言語を扱う脳の左側に活発な動きが見られたそうです。
また、手話の最中は手の動きだけでなく顔の表情も言葉として認識されています。
手話の単語数が音声言語に比べ少ないと言われますが音声言語に当てはめられる手話が少ないだけで、実際は左右の手の空間、角度、動かす速度、また、顔の表情によって様々なことを表現できていて、表現に必要な固有名詞も、小さなコミュニティーの中では次々と生まれています。
これら一つ一つが文法を形成していて、本書のなかでは空間的文法といった表現を使っていました。
外国語を学ぶ時、文法の学習は欠かせませんが、子どもは母国語を習得するのに、文法を教わりません。
子どもは周りの話す『情報の乏しい劣悪なデータ』から自身で文法を構築する能力が備わっていると著者はいいます。
手話についても始めは身振り手振りとして認識されていた手の動きも、やがて文法の中に組み込まれ言語として習得されるのです。
脳の働きとして見ると音声言語も手話も同じように処理されていることから、科学的には言語であるというのが本書での見解です。
また、本書では言語を習得しないとは、どういう事かについてもふれています。
紹介されていた事例では、11歳になるにも関わらず、言語をまったく身に着けていなかった少年(この子は耳が聞こえず親も言葉を教えず育児放棄の状態だった)に手話を通して言葉を教えていくと、人や物の名前を次々と覚えていき、その事に喜びを感じているようでもありました。
しかし、時間の概念はなく過去や未来について話すことが出来ず、また質問をすることも、質問をされて答えることもできませんでした。
また形容詞を理解するのも難しく『早く泳げる友人』を表現する時に、『友人は魚だ』といったような、別の名詞を使った表現の仕方をしていました。
医師の診断によるとこの少年は耳が聞こえないこと以外は知能などに問題はありませんでした。
しかし言語を習得しないという事が、思考や想像力に大きな欠如をもたらしていたのです。
昔は、ろう者に対する理解が少ない事から、この少年のような子供が多くいて、
高い学習能力を持ちながらも、その機会に恵まれず『愚か者』といった扱いを受けることもあったのです。
これは海外の事例でしたが現代の日本でも十分に起こりうる事で、両親が聴者の場合、耳の聞こえない子への教育がわからず結果的に言語習得が遅れてしまうということもあるので、悩まずに相談することが大切です。